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執筆者の写真MAL

こんな自分、初めて見た。

ポートレートを撮影していると、「こんな自分を見るのは初めて」「素の自分ってこんな感じなんですね」「私ってこんな笑い方するんだ」… このような声を聞くことが珍しくありません。

普段スマホやiPhoneなどでの撮影は、大切な人や家族、友人や仕事仲間などのようなよく知っている人に撮られることが多いのではないでしょうか。

そうであれば無意識のまま社会的肩書きを演じながら写真を撮られているのかもしれません。

家族内であれば、母、父、子どもなどの役割があり、社内でも上司や部下など個々に立ち位置や立場があり、気が知れた友人関係の中にあったとしても、心のどこかで自分はこうじゃなきゃいけないと別人を演じていたり…。

人は社会で生きていく中で様々な肩書きや立場を持っています。

その肩書きや立場を外れたところが素の自分、「ひとりの人」として自分らしくいられる時間なのではないかと、僕はそう考えています。

ポートレートを気心が知れている人に撮られるのも素敵なことだと思いますが、普段全く知らない「僕/MAL」という人間と会い、普段の肩書きを全て外しありのままの自分を描写してみる。

個々に大小の違いはあれ緊張もするかもしれませんが、人としてそれはそれで良いのではないでしょうか。

撮影後は日常にはない何か余韻を感じながらも「ありがとうございました」と終了し、写真ができた後は自分自身を眺めてみる。

感じたことや想いを言葉や文章で表現しても面白く、これまで気づかなかったり忘れていた素の自分がどんどんと出てくるかもしれません。

「撮影って面白い」「ポートレートって面白い」「もっと撮りたくなった」「より自分が好きになった」「自分が愛おしく見える」...。

そんな声を聞くのが僕は大好きです。

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